Domaine de la Romanée-Conti

概要

歴史が刻み込まれた門がそびえ、
壁にはRue du TEMPS PERDU
(失われた時の通り)の
プレートが埋め込まれている。
そこは時が止まったかのような
静けさに包まれていた。
ドメーヌ ド ラ ロマネ・コンティが位置するヴォーヌ・ロマネ村ワイン畑の歴史はローマ時代まで遡ることができる。「ロマネ」とは、まさに当時この地を統治していたローマ人に由来する。以来2,000年以上の時を経て、その名は今日のロマネ・コンティに受け継がれている。

1232年、サン・ヴィヴァン修道院が現在のロマネ・コンティ、ロマネ サン・ヴィヴァンの畑を所有。やがて周辺の畑がラ ロマネと呼ばれるようになった。
18世紀初頭、この畑で作られたワインを時のルイ14世が持病の治療薬として毎日スプーン1杯飲んでいたという逸話が残されている。
1760年、コンティ公ルイ・フランソワ1世がラ ロマネを落札。公爵はこの畑のワインすべてを自家用とし、宮殿で上流階級や多くの芸術家たちに振る舞ったとされる。
その後、フランス革命により教会と貴族が所有する畑はすべて国家が没収。競売によりラ ロマネの畑は所有者が変わり、この頃から以前の持ち主であるコンティ公に由来するロマネ・コンティと呼ばれるようになった。

1869年、ド ヴィレーヌの家系に繋がるジャック・マリー デュヴォーがロマネ・コンティの所有権を獲得し、ドメーヌ ド ラ ロマネ・コンティの名称を登録。その後ドメーヌ ド ラ ロマネ・コンティは様々な畑を買い足しながら1942年に法人に改組。同時にアンリ・ルロワが株式を取得し、ド ヴィレーヌ家とルロワ家が共同で経営する体制が確立された。

1974年、オベール ド ヴィレーヌとラルー ビーズ・ルロワが共同経営者に就任。1992年にラルーが退くとラルーの姉ポリーヌ ロックの長男シャルル ロックがその後を継ぐも交通事故で急逝。弟のアンリ・フレデリック ロックが後任を努めるが、2018年にこの世を去ったためにラルーの一人娘でシャルルとアンリ・フレデリックのいとこであるペリーヌ フェナルが代表に就任する。 そして2021年、オベールが引退を決意し従甥であるベルトラン ド ヴィレーヌがペリーヌと共にドメーヌ ド ラ ロマネ・コンティの舵を取ることとなった。

サン・ヴィヴァン修道院の遺跡修復事業の推進

9世紀末、オート コート ド ニュイのヴェルジーに建てられたサン・ヴィヴァン修道院は、まさにドメーヌ ド ラ ロマネ・コンティのルーツとも言える史跡だが、残念なことに一時期手つかずのまま放置されていた。ここに救いの手を差し伸べたのが、オベール ド ヴィレーヌである。
このままでは廃墟となることを危惧した彼はサン・ヴィヴァン修道院協会を設立し、その会長として遺跡の調査及び保存修復活動を指揮した。
現在この活動はベルトランとペリーヌに引き継がれている。

ワイン

長い歴史に磨かれたブルゴーニュの
至高にして至宝。
世界に冠たる
ドメーヌ ド ラ ロマネ・コンティの
ラインアップ。
左からグラン エシェゾー、ロマネ サン・ヴィヴァン、モンラッシェ、ロマネ・コンティ、ラ ターシュ、リシュブール、エシェゾー

9つのグランクリュから生み出されるブルゴーニュの至宝

■畑の面積と平均生産本数一覧
畑名 面積(ha) 平均生産本数
ロマネ・コンティ 1.8140 5,500
ラ ターシュ 6.0620 18,500
リシュブール 3.5110 11,500
ロマネ サン・ヴィヴァン 5.2858 15,000
グラン エシェゾー 3.5263 10,500
エシェゾー 4.6737 14,500
コルトン 2.2746 6,000
モンラッシェ 0.6759 3,000
コルトン・シャルルマーニュ 2.9132 9,000

ドメーヌ ド ラ ロマネ・コンティ
ヴィンテージレポート(PDF)

畑と造り

9つの畑はすべてグランクリュ。
伝統的に自然に過度な介入をせず、
近年はビオディナミ農法を実践する。
ドメーヌの西側に築かれた石垣の先はロマネ サン・ヴィヴァンの畑である。1966年にドメーヌ マレ・モンジュから畑を借り始め、1988年に取得した。門を出てこの畑を右手に見ながらタン ペルデュ通りを西に400m程進むと、突き当たりがロマネ・コンティだ。
東南東に向かうなだらかな斜面に広がる畑は、面積1.814ha。ブドウ樹は日の出と共に陽光を浴び、長い時間十二分にパワーを受け取っていることがよくわかる。

ロマネ・コンティの北側に広がるのがリシュブール。3つの区画に分かれており、南端の区画はロマネ・コンティの畑に隣接している。南側には畑をひとつ挟んでもう一つのモノポール、ラ ターシュが控えている。ドメーヌ ド ラ ロマネ・コンティは複数回に分割しラ ターシュの畑を取得し1933年にモノポールとなった。そして石垣に沿って北に延びる道を1km程行くと、グラン エシェゾーとなる。

モンラッシェは1963年に最初の区画(0.34ha)を取得し、1980年に現在の0.68haまで拡張するに至る。その他記憶にも新しいが、2009年よりドメーヌ プランス フロラン ド メロードから畑を借り、コルトンを造り始め、その10年後の2019年からはドメーヌ ボノー デュ マルトレイから畑を借り、コルトン・シャルルマーニュを手掛けている。

ロマネ・コンティでは、1945年まで接ぎ木をせずにフィロキセラに対処してきた。つまり、伝統的に取り木法のみで増殖されてきたため、それまでのブドウ樹はコンティ公爵時代に植えられたブドウ樹の直系の子孫であった。
1945年末にすべてのブドウの株を刷新することとなったのだが、その際にはまずロマネ・コンティ畑から取った接ぎ木を用いラ ターシュ畑の株を更新した。次にそのラ ターシュ畑の株からの接ぎ木によって再びロマネ・コンティ畑の株を更新した。つまり、現在でもロマネ・コンティのブドウ樹には、18世紀からのDNAが脈々と受け継がれているのである。

ドメーヌ ド ラ ロマネ・コンティでは、1986年より有機農法を開始。2000年にはロマネ・コンティの畑とラ ターシュの畑の一部でビオディナミを開始し、2007年はそれを全ての所有畑に広げた。一部の畑では馬を使っての耕作も行っている。
根底にあるのは、当初からこのドメーヌが持っていた自然に過度な介入をせず可能な限り自然を尊重するという考え方。そのためには常に気候との闘いがあり、様々な対策を施しながらも苦悩に次ぐ苦悩があった。だが、自然に従い、自然が与えたいと思うものを自然から得るという理念を持ち続けているからこそ、科学的にブドウを管理・保護することなくビオディナミ農法をスムーズに取り入れられたのだといえよう。

ブドウは破砕・徐梗せずそのまま木桶に入れて発酵。発酵温度を32〜33℃に保ち、発酵及び醸しはできる限り緩やかに長めに実施している。
樽熟にはトロンセ産の樫の新樽を100%使用。

フィロソフィー

「人類にとっての宝物を受け継いで行くことが、
私たちの大きな使命だと考えています。」
貯蔵庫の奥にはそこかしこに瓶詰めされたワインが整然と並び眠りについている。
この瓶熟庫の奥にある試飲スペースで、ペリーヌ フェナルとベルトラン ド ヴィレーヌのインタビューは行われた。

エクスペリエンス

自然に対する畏敬の念。
そこから生まれる
慎ましさと真摯さによって
護られてきたブルゴーニュの真珠。
「私たちは地図上の区画における所有者に過ぎません。土壌を所有しているわけではなく「守り人」なのです」。ベルトランが静かに話すと、ペリーヌが深く頷いた。
ふたりの言葉には大言と捉えられるような表現は一切無い。誇りにあふれていながら慎ましく謙虚で、真摯である。自分たちを語る際、受け継ぐ、引き継ぐ、護る、使命などの言葉が散りばめられている。
ペリーヌはこう語る。「人類にとって重要な遺産を受け継いでいくことが私たちの使命だと考えています。」
そして、自分たちは観察者だと断言する。常に変化する自然を観察し、その変化への対応を絶え間なく重ねること。こうして、ドメーヌ ド ラ ロマネ・コンティのクオリティは護られてきた。
人知を超えた偉大なテロワールへの畏敬の念と、そこから生じる謙虚さがこのドメーヌには受け継がれている。この唯一無二のテロワールの守り人たらんとする彼らに護られブルゴーニュの真珠は輝きを放ち続けている。